天天

1999生まれ. アーティスト. 和太鼓奏者.

自分の夢を忘れないで

『教師になれたらいいな』

高校生3年生くらいから、そう言ってました。小さい頃から絵を描くのが好きだった。美術コースのある高校へ通い、将来はイラストレーターとかになれたらいいかな、と漠然と思っていた。だけど、仲の良かった友達が美大受験をする話を聞いて、オープンキャンパスに行ったりする内に私も美大進学への意識が高まっていった。(美大受験の話はまたいつか)

 

美大に入り、和太鼓サークルを始めた。中学の時に所属していた和太鼓部で叩いて以来、またやれたらいいなと思っていたので、入部した。

そこの団体は、”大学のサークル”ではなく”運動部”だった。かなりスパルタな指導の中、打ち込んだ。大学で青春を味わえるなんて思っていなかったし、濃すぎる思い出ができた。(太鼓話もいつか書きます)

指導者の先生が言っていた言葉がずっと頭にある。

「俺は刺激をもらうために、刺激を与えるんだ。」という言葉。

いつしか、私が教師を目指す理由の一つにもなった。

 

なんでかわからないけど、教師になってからは、目の前のことでいっぱいで、自分がこれからベテラン教師になるために、、と、今後ずっと教師を続ける前提で色々考えていた。

病気休暇の間に、私は本当は何がしたいんだっけ?と改めて考え直した。いつから私は、”立派な社会人”を目指していたんだっけ。あれ、私、教師が人生のテーマだっけ。私、表現がしたいんじゃなかったかな。私の夢ってなんだっけ。

 

思い出した。大学4年の時、教授と話したこと。

「私、将来アーティストになることが夢です。そのためにアトリエを持ちたいんです。社会経験をしておきたいので、一度教員になることを決めました!」

 

ちゃんと自分でわかっていたはずなのに、いつからつまらない大人になりかけていたのだろうか。非常勤講師でも良いって、高校生の私は言っていた。

常勤の公務員の教師は、自分の作品をつくる時間など、気力など、到底なかった。

完全に自分と自分の夢を見失う前に気づけて良かった。

私は社会に搾取されていたんだと思った。常識とか、当たり前とか、くそくらえだ。自分が強い意志をもって生きることを忘れたくない。

 

私と面識のない人が、私の絵を見て、「教師じゃなくて、アーテイストの絵ですね」と言っていたらしい。うれしかった。私はまだ夢を諦めたくないと思った。

 

心が元気じゃないとき、全く制作する余裕を失う。本当に辛い時間だ。描きたいのに描けないのは辛い。描けないのはアーティスト失格だ、描けないというのは言い訳だ、体調不良も言い訳だ、と、また謎の”常識”が自分を縛り付ける。

気持ちと体調の波と戦いながら、今日も私は自分のペースで生きている。

どうにかこうにか、試行錯誤しながら、少しずつ作品をつくっています。

 

今の私は、できない気持ちをもつ人に寄り添える自信がある。