天天

1999生まれ. アーティスト. 和太鼓奏者.

自分の意志で選択したものに後悔はない

2月の終わりに、管理職と会って話すことになった。

あと1週間以内に、辞めるか、復帰するか、休職するか、決めてくれと言われた。もう少し早めに言ってほしかった。その時の私は、考える脳の余裕が無かった。もうどうすれば良いのかわからなかった。

復帰しなきゃ、たくさんの人に迷惑をかけた分をがんばって働かなきゃ、同期が頑張ってるから私も戻らなきゃ、公務員になれて先生になれて喜んでくれた人をがっかりさせないようにしなきゃ、そんなことばかり考えていた。すべて周りの人基準だった。

自分の素直な気持ちは『辞めたい』でした。

このまま続けたら本気で死ぬ、と本当はわかっていました。「辞めてもいいんだよ」という言葉がほしかった。

今でも付き合いのある高校時代の先生は、すごく親身に話を聞いてくれました。「休職にしないと後悔するよ」「公務員の権利なんだから」「パワハラだから教育委員会に言ってもいいんじゃないか」と、私のために色々意見をくださいました。私は、休職する気は最初からありませんでした。"公務員だから"と割り切れる人ならいいのかもしれませんが、病気休暇の期間でこんなに罪悪感に殺されそうになったのに、私は無理だと思いました。損とか得とか、もうそんなのはどうでもよくて、ただただ逃げたかった。私一人で、社会と戦える気力なんて無かった。「助けてほしい」と誰かに言いたかった。誰に言えばいいかわからなかった。もう消えたかった。客観視してものを考える余裕なんて、あるはずがなかった。

 

結局、自分の意志で退職を選択した。

私は今までの人生で、自分で何かを決断したことがあったのだろうかと考えた。

何かを決める時に必ず母や友人に意見を求めていた。自分の意志を尊重できた気がして、嬉しかった。見栄とかプライドとか、そんなものは捨てたほうがいいことを実感した。自分に素直に生きることで幸せになれるのです。

 

『普通に働いてたら休まないといけない、なんてなることはそうそうないから、良い経験してるよ。20代なんて好きなことしてて良いんだよ。』

と言ってくれた人がいた。すごく励まされた。

 

泣きながら母に電話をかけたとき、『ただ笑って元気に過ごしていれば良いのよ! 』と母が言ってくれた。

 

仕事とかお金とか利益とか、そうである以前に自分のわくわくとか、心が満たされているかとか、そっちの方が優先なのです。私はなにに焦っていたのだろう。自分で自分を縛り付けて苦しくなって、もっと楽に生きていいんだ、って色んな言葉を聞いて思うことができました。

社会のレールに乗って立派な社会人を演じ続けるより、肩書きに縛られずに自分のレールをつくっていく人生の方がきっと私は幸せだと思いました。

焦らず、ゆっくり自分のペースで、楽しく楽しく、日々を過ごせたらいいな。

自分の夢を忘れないで

『教師になれたらいいな』

高校生3年生くらいから、そう言ってました。小さい頃から絵を描くのが好きだった。美術コースのある高校へ通い、将来はイラストレーターとかになれたらいいかな、と漠然と思っていた。だけど、仲の良かった友達が美大受験をする話を聞いて、オープンキャンパスに行ったりする内に私も美大進学への意識が高まっていった。(美大受験の話はまたいつか)

 

美大に入り、和太鼓サークルを始めた。中学の時に所属していた和太鼓部で叩いて以来、またやれたらいいなと思っていたので、入部した。

そこの団体は、”大学のサークル”ではなく”運動部”だった。かなりスパルタな指導の中、打ち込んだ。大学で青春を味わえるなんて思っていなかったし、濃すぎる思い出ができた。(太鼓話もいつか書きます)

指導者の先生が言っていた言葉がずっと頭にある。

「俺は刺激をもらうために、刺激を与えるんだ。」という言葉。

いつしか、私が教師を目指す理由の一つにもなった。

 

なんでかわからないけど、教師になってからは、目の前のことでいっぱいで、自分がこれからベテラン教師になるために、、と、今後ずっと教師を続ける前提で色々考えていた。

病気休暇の間に、私は本当は何がしたいんだっけ?と改めて考え直した。いつから私は、”立派な社会人”を目指していたんだっけ。あれ、私、教師が人生のテーマだっけ。私、表現がしたいんじゃなかったかな。私の夢ってなんだっけ。

 

思い出した。大学4年の時、教授と話したこと。

「私、将来アーティストになることが夢です。そのためにアトリエを持ちたいんです。社会経験をしておきたいので、一度教員になることを決めました!」

 

ちゃんと自分でわかっていたはずなのに、いつからつまらない大人になりかけていたのだろうか。非常勤講師でも良いって、高校生の私は言っていた。

常勤の公務員の教師は、自分の作品をつくる時間など、気力など、到底なかった。

完全に自分と自分の夢を見失う前に気づけて良かった。

私は社会に搾取されていたんだと思った。常識とか、当たり前とか、くそくらえだ。自分が強い意志をもって生きることを忘れたくない。

 

私と面識のない人が、私の絵を見て、「教師じゃなくて、アーテイストの絵ですね」と言っていたらしい。うれしかった。私はまだ夢を諦めたくないと思った。

 

心が元気じゃないとき、全く制作する余裕を失う。本当に辛い時間だ。描きたいのに描けないのは辛い。描けないのはアーティスト失格だ、描けないというのは言い訳だ、体調不良も言い訳だ、と、また謎の”常識”が自分を縛り付ける。

気持ちと体調の波と戦いながら、今日も私は自分のペースで生きている。

どうにかこうにか、試行錯誤しながら、少しずつ作品をつくっています。

 

今の私は、できない気持ちをもつ人に寄り添える自信がある。

一緒に不安を分かってほしかった

2月から文字をたくさん書くようになった。日記は今まで書こうとしても、長期的に続くことが少なかったので、"なんでもノート"ということにした。書きたいときに書きたい言葉を書く。書きたくないときは書かない。書けなくても自分を責めない。というルール。

すごく思考が整理されて良いものだった。

まだ働いていた冬頃から、脳が変だった、自覚があるくらいに。文字が全く頭に入ってこない、今までこなしていたことが時間がかかるようになった、とか。一番周りへの迷惑だったのが、LINEを返せないことだった。なにもかもが億劫だったのもあるし、返信するときに相手を傷つけないようにするための文を考えるのがすっごく疲れるのです。多分、今まではそれを普通にしていたけど、頭が回っていない私にはハードルが高く感じました。

『気にしないほうがいいよ』『そんなの適当にこうすればいいじゃん』

という意見は、私にとっては簡単なことではないのです。

自分が今までどういう感覚で生きてきたのか、思い知らされる瞬間がたくさんありました。かなり神経使って生きているんだと思った。

そうはいっても、他人との基準の比較など、できないものです。私に、考えすぎだという人もいる分、私よりも神経質な特性をもった人もたくさんいるんだろうな。

だからこそ、分かってほしい、という気持ちが出てきてしまいます。私はSNSとかで、自分の辛さを発信することがやめられませんでした。同情してほしい、理解してほしい、慰めてほしい、優しくされたい、色んな気持ち。現実では、人に頼ったり甘えたりすることは苦手だけど、私のアカウントで個人的なことを発信するのは悪いことではないでしょ?と思ってました。いいねが来るたび、それが今の私を認めてくれるような気がして。

今改めて考えても、(他人を傷つける言葉以外は) 発信すること自体は悪いことではないと思っています。まあでも、それを見た人に心配をかけすぎてしまったことは反省しています...

 

ネガティブなこと、今の自分が不安なことを発信してしまうことで、他人どうこうではなくて、自分自身をもっと不安に陥れることだったなと今は思います。

その時の不安は、一瞬の気の迷いだと言えるものもきっとあります。それを言葉に、形にしてしまうことで、よりそうなんだと思い込んでしまうのかもしれません。

 

私はなんでもノートを書いてからは、SNSに依存して発信することがすごく減りました。他人からの言葉がほしいとかではなくて、自分自身と向き合うことができたからです。ぐちゃぐちゃしている脳みそを形にする前に、自分がなぜその感情なのか、どうしてそう思ってしまうのかが理解できたら、少し意識が変わることを知れました。

心の寄り添い方は難しい

今は、病気休暇の期間は自分を見つめなおすための時間だったように思える。

良くも悪くも、自分は思考回路が少し変なところがあることを知れた。

考えすぎる。悩まなくていいところをずっとぐるぐる考えてしまう。気にしなくていいことをずっと気にしてしまう。人と話すのが好きなのに、一人になるとすごく疲れる。

 

以前、学校で心のアンケートのようなものを実施した時に、死にたいと書いていた生徒がいた。その子が相談したい先生はいますか?の欄に私の名前を書いてくれていたことで、私はその子と話すことになった。

1時間くらい話した。その子はあまり自分から話すタイプではなかったので、私の方から色々質問をしたり、私自身の話をしたり、とにかくまずはリラックスして話せる空気にしようと心がけた。

その子は学校も塾も家でも、辛いみたいだった。自分が安らげる居場所の作り方は、難しい。けど、せめて私は話せる相手の一人になりたいと思った。

 

中学3年生、受験生の秋ごろだった。「受験がんばりましょう」「受験のために塾に行きましょう」「体調悪くないのに休むなんて許さない」「今がんばらなくてどうするの」とか、たくさんプレッシャーをかけられる時期だ。学校とか、社会は、目先のことしか言わないのだ。そんなとき心の問題に向きあってくれる人が近くにいないのは、辛すぎる。まだ中学生の、14歳の子に、死にたいと言わせる環境なんて、本当にだめだ。

特に中学生までは、バイトをできるわけでもなく、保護者の元にいるわけだから、やはり自由は少ない。何をするにも保護者の許可が無いと動けない環境。悩みを打ち明けられる人間関係が無い場合、自分で抱え込んでしまう子に対して、学校はどうサポートができるだろうか。社会とか世間体とか常識とか、そういうことを全て忘れて話をしないといけない。目に見えたいじめのような犯罪行為だけでなく、心の問題も、社会問題の一つなのではないか。

私は、ただ寄り添って聞いて、具体的な現状打破するやり方などは言えたわけではないけど、その子は泣いていて、少しすっきりしたみたいではあった。すこし力になれたかな。

 

自分と人の考え方や価値観は、もちろん違う。本当の本当に寄り添えなくても、寄り添う姿勢があるだけで、支えられている気持ちになれるのではないでしょうか。

もちろん、それさえもうんざりしたり、突っぱねてしまう気持ちの時ももちろんありますが。人間って複雑すぎるな。

難しいけど、そうやって色々知って、理解できることを増やして、成長していきたい。

 

あの子が今、生きててよかったと思える日々を過ごせていますように。

辛いときに辛いと言いたい

一月の終わり、一か月の病気休暇がもうすぐ終わる。

 

とにかく、早く復帰して、休んでいた分頑張らないとと思っていた。

自分は大丈夫だと思っていた。一か月も休む時間をもらったのだから、大丈夫でしょと。

今思えば、管理職の電話に怯えながら過ごし(定期的に電話かかってきた)、この時間も私の分を含めて先生方は頑張っているから休んではいけないと思っていたので、少しも休めてはいなかったと思う。罪悪感と焦燥感と絶望とで働いてる時よりつらかった。

 

次の心療内科の受診で、今後のことを考えましょう。と言われていたので、ある日の受診で、「二月から復帰したいです! 私はもう大丈夫です。」と先生に伝えた。

「無理だと思います。」

私の症状の様子などから、そう判断された。そして結局、3月いっぱい(今年度)はお休みしましょう、ということになった。

 

私は怖くて仕方なかった。どう思われるのか、ばかり気にしていたな。職場の方々に、世間に、家族に、友達に。

本当に悔しかった。何を変えればこうならなかったのか、私はなんて無能なんだ、みんな頑張っているのに、今の私は頑張ろうにも頑張る気力も体力もない、ひたすらに悲しかった。生きている意味なんだろう。私、社会人ができなかったら、どうやって生きていったら良いんだろう。

悔しくて、悲しくて、一日中そんなことをだらだらと考えながら、何もできなくて、ずっと布団の上でパジャマでぼーっとしながら、同じことをずっと考えて、泣きながら、日が暮れていく。

また夜になってしまった。また何も生産的なことができずに一日が終わった。

こんなにどん底な気分になったことなんてなかった。私は今までも、引きずりやすく気分に波があるタイプではあったが、根性で何とかなってた。負けん気が強くて、がんばるがんばる!!!と思っていれば、本当に頑張れたし、這い上がれたし、折れずに済んできた。だから信じていた。私がこのまま頑張っていれば、いつか慣れて、後輩もできて、ベテラン先生になっていけると。

どーうにもならないことがあるんだと知った。社会人一年目の自分の非力さが悲しかった。

 

映画は今年に入ってから、60本以上は見たと思う。

時間はあるけど、気力と体力がない、スマホを見ることしかできない、そんな時に少しでも自分の思考回路を休ませてくれたのが映画だった。

動けない自分を色んなところへ連れていってくれる。色んな人の人生の一部を見せてくれるものだ。

観ていると、私はこれから自分の意志でどうにでもなれると思える瞬間もたくさんあった。

 

今思えば、現実は自分がつくるものなんだ。自分の意識が未来をつくっていくものなんだとわかる。

難しいな。底の底にいるような感覚のとき、それは別に底でもなんでもないのに、上に上がれなくてどんどん息苦しくなって、視野がどんどん狭くなっていく。

広く考える余裕なんてないし、そもそも見えてないのです。

人に、こうしなよと言われることが辛かった。でもそれは事実であるし、悪気があって言うことはそう無いとは思う。

私は素直になれなかった。周りにも、自分自身にも。すべてに対してひねくれていた。

素直になれないことの難しさ。辛いときに辛いと言える人は強いのかもしれない。

心は素直に休めない

年末年始。長かった2学期が終わり、やっと休み。

クリスマス、大晦日、お正月と、普通に楽しんでいたけど、1月2日の夜、真っ赤な血尿が出た。お腹がすごく痛い。

3日、少し熱も出ていて、すごくしんどかったけど、血尿が怖すぎて病院に行こうとした。ちゃんと調べたはずなのに、駅前に行ってもお正月だから空いていなかった。

座れるところでぐったりしながら、死にそうだった。恋人がちょうど近くに来ていたので、助けてもらった。その後薬をもらって、ずっと微熱だったけどなんとか大丈夫だった。仕事始めの7日までには絶対治ってくれ〜〜!と思ってました。

 

しかし6日の夜、

明日は仕事始め…まだ冬休みだけど日直だから行かないといけない…休めない…でも体調が悪い…頑張らないといけない…でもまた地獄の忙しさがやってくると考えると怖い…私自身がもつかどうか不安…

とか色々考えていたら、パニックになった。涙が止まらず、息苦しくて、結局一睡もできなかった。もう限界突破しすぎた。

7日の朝、管理職に連絡し、状況を説明して休ませてもらうことにした。

 

心療内科を受診しようと思ったけど、予約は2ヶ月先ですとか、そんなのばかりだった。心を病んでる人は多いんだな…

幸い予約なしの心療内科が一駅先にあったので、そこへ行くことにした。

「心因反応を起こしています。仕事を頑張ろうと思っても頭回らなくて無理だと思うので、1ヶ月休んでください。」

とお医者さんに言われた。

 

仕事どうしようで頭いっぱいになった。

今月はこれがあってあれもあって…あれは私にしか任されてない仕事だからまずいな…

とかそういうことをずっと考えていた。

でも診断が出ている以上とりあえず休むしかないと思ったので、ものすごい罪悪感を抱えながら、病気休暇を頂くことになった。

診断書を郵送してくれれば良いと言ってくれたので、学校には行かなかった。

 

一月は、毎日意味もなく泣いて、自分を責めて、何も気力もなくてボーッとして、週に3,4日くらいのペースで微熱だったのでずっと寝込んでいた。辛くて辛くて仕方なかった。

職員室の先生方に申し訳なくて、自分は仕事ができなくてなんてだめな社会人なんだ、同期もみんな頑張っているのに、私は本当に無能で生きている価値がない、と思っていた。

死にたいという気持ちが、常に頭にあった。社会に出た大人は、社会人として全うできなければ死ぬしかない、みたいな、すごい極端な思考だった。それは働けない人を批判しているわけでもなく、働けない上に体調不良で動けない自分自身が本当に情けなくて、自分に対しての否定だった。

病気休暇。どこが休暇やねん。と今でも思う。

この期間が、精神的に一番辛かった時間だった。

働くために生きていた

秋ごろから、悪かった体調がさらに悪化していった。

特に職員室にいる時に、頭痛と耳鳴りと耳の痛みがひどかった。キーン、ガンガンって痛み。首と肩の凝りがやばかったのもある。

気持ちの変化もつらかった。何に対してかわからないけど悲しくなったり、イライラが止まらなくなったり。

毎週毎週が、一瞬で過ぎていく。なんとか気持ちを奮い立たせて過ごしていた。

生徒の前ではいつも通りに振舞っているつもりだったけど、「先生体調大丈夫?」「先生一年目なのに色々任されすぎじゃない?」と心配されてしまった。

 

こんなんじゃだめだ。保護者にも一年目は関係無いと言われたし、他の先生と同じくらい頑張らなきゃいけない。

と思っていたけど、ストレスチェックをしたときに、結果に『うつの傾向があります』と出ていたのがきっかけで、教育委員会の紹介で病院に行くことになった。

そこの病院の先生には、「まだ頑張れるでしょ?」と言われて悲しくなった。

でも、後日教育委員会からの通知で「月の残業時間を20時間に抑えなさい」という通知がきた。(そんなん部活やってたら20時間過ぎるやん、と思いました。)

それからは無理やり早く帰ったり、私に全任せだった先生に逆に任せたり、締め切りにどうしても間に合わないときはごめんなさいして、なんとか過ごしました。

 

冬のある日、午前中の授業から、なんだか体調が悪くて、立っているのもしんどかった時がありました。4時間目の授業を終え、職員室の自分の席に戻ってから動けなくなりました。(早く給食指導へ行かなきゃ...)と思ってはいるのに、動けない。自分の書類まみれの机を見て、悲しくなりました。5時間目も授業はあるけど、もうだめだ、今日はもう何もできない、と思って、管理職の先生のところへ行きました。「あの...」と言って、その先の言葉が出てこない。「あ、もうだめ?帰る?」とその時は察してくれました。そのあと職員室で大泣きしました。ちょうど職員室に入ってきた私の指導教員は、私が悩んでいることなど知らなかったので驚いていました。

 

その日はそのまま帰らせてもらいました。

私はなんのために働いているんだろう、教師の本質はこうじゃない、、と思いながら、泣きながら帰った。

 

12月は、ほぼ毎週1時間遅れて行く日がありました。朝、いつもの時間に目が覚めるのに、体を起こせないのです。

それと微熱が出ることも増えました。限界すぎました。

 

そんな感じで何とか12月を乗り越え、やり切ったー!来年に備えて年末年始しっかり休んで過ごすぞ!!と思っていたのに、そのあと出勤することはありませんでした。